1830 - 1864
青年は西部へ向かう
創業者のジョン・バタソン・ステットソンは、1830年に東部のニュージャージー州オレンジに生まれました。父のスティーブンは帽子ビジネスで成功し、ノー・ネーム・ハット・カンパニーという会社を設立。子どもは12人おり、ジョンはその7番目。ジョンは正式な学校教育をほとんど受けず、読み書きは母から、帽子のビジネスは父にから教えを受けますが、20代で結核を患い、健康を回復するために西部へと旅立ちます。
1830-1864
ステットソンは、一時期、ミズーリ州のセントジョゼフで 煉瓦工として働き、後に煉瓦工場の共同所有者になります。
しかし、煉瓦工場が火災と洪水によって倒壊してしまい、 ステットソンはさらに西を、そして高みを目指して、 パイクス・ピーク登山探検隊に加わります。
父から伝授された帽子製造の技術を生かして、毛くずをフェルトに加工し、毛布やテントを、そして鍔の広い帽子を作り出します。
パイクス・ピークの探検では、隊員たちは寒さと風雨をしのぐために動物の皮の帽子を被っていましたが、なめし加工を施していなかったので、帽子の皮が腐敗するケースが多かったようです。
1865 - 1869
フィラデルフィアへ帰還
ステットソンはパイクス・ピーク登頂に成功し、健康を取り戻しますが、大金を得たわけではありませんでした。1865年にフィラデルフィアに戻り、姉から60ドルを借りて、帽子の製造販売を始めます。フィラデルフィアには帽子工場が多数あり、競争は熾烈でした。 やがてステットソンは、かつての経験を踏まえ、西部への帽子販売を思い立ちます。
1865 - 1869
ステットソンは新しい流行を創り出そうと 一心に製品の差別化に取り組みますが、 大した成果は得られませんでした。
1869年、出会ったカウボーイに乞われて売った帽子を再現。それを「ボス・オブ・ザ・プレインズ(平原の大将)」と名付け、発売。この帽子が、後にステットソンをアメリカのシンボルへと導くことになります。
長く激しい南北戦争後、アメリカはようやくひとつの国家として団結します。
1870 - 1875
製帽工場の設立
「ボス・オブ・ザ・プレインズ」第1号を作ってから1年もたたない1870年に、ステットソンはフィラデルフィアの北の郊外に建物を購入しまします。これがやがてアメリカ最大の帽子工場へと成長し、 ステットソンは革新的な事業を推し進めながら、従業員の福利厚生も大切にするという、ステットソンの経営理念を打ち建てます。
1870 - 1875
ステットソンは従業員のために生命保険制度、クリスマスボーナス制度などを作ります。さらに、好条件に引き寄せられて集まった職人を対象に、市民権取得を応援する教育プログラムも用意します。
当時としては革新的な販売手法だったカタログを1872年に創刊。
1876 - 1900
19世紀の黄昏
アメリカが建国100年を祝う頃、ステットソン社は多数の賞を獲得し、各界から高い評価を得るとともに、大企業として地位を確立し、国際的にも注目される存在となります。
1876 - 1900
カスター将軍は、最期の戦地となるリトル・ビッグ・ホーンの戦いへも、ステットソンの帽子を被って赴いたと伝えられています。
海外から最初の注文を受けたのは1877年の事。日本から375ドル15セント、イギリスから51ドル50セントの受注でした。
1901 - 1919
事業の発展
時代は20世紀へ。創業者のステットソンは、自身も想像していなかった成功へと会社を導いていきます。ステットソンは直感的に時代を先取りしたマーケティング手法に着目し、伝統的でありながら革新的でもある手法を組み合わせてます。それにより、ステットソンを知らない人が居ない程にステットソン社の名を知らし広め、ステットソン社製の帽子はアメリカン・クオリティの代名詞とまで言われる様になります。しかし、創業者のジョンには、あまり時間が残されていませんでした。
1901 - 1919
初期に販売されたストロー・ハットは、主にカンカン帽、発売後大学を中心に人気を博します。普通は黒のシルク・リボンを使うところを、大学のスポーツチームのスクールカラーに合わせ、カラフルなグログラン・テープを施し、販売します。
セオドア・ルーズベルトは、富裕な家庭の生まれでしたが、独力で優れた軍人、拳闘家、カウボーイとなり、政治的リーダーとしては特異な社会的良心を見せた人物でした。
ジョン・B・ステットソンは76歳のとき脳動脈瘤で他界します。
1920 - 1929
狂騒の20年代
ステットソンは、ジャズ・エイジの波に乗り、新しいファッショナブルな帽子を作り続けます。ステットソンの帽子は、ハリウッドの大スターや政治家に加え、贅沢な暮しを満喫する、流行に敏感なセレブたちに愛用される様になります。
1920 - 1929
1929年4月17日、ワシントンDCのグリフィス・スタジアムでの野球開幕式に臨む大統領一行。
ブランド・アンバサダーとなったトム・ミックスは、ステットソンの帽子を被り、行く先々で帽子をプレゼントします。その功績に感謝し、今も尚、彼の名を冠した製品を作り続けています。
ステットソンのカラー広告の初期の一例。社内のデザイナーや社外のアーティストを起用し、美術作品とも言える広告作品を大量に制作します。
社内ニュースレター「ハット・ボックス」は、ステットソンを知る上で重要な記録であり、20世紀初期のアメリカの工業従事者がどういう生活を送っていたかを知る上でも貴重な資料です。
この時期、ステットソンは、アメリカの大統領や立候補者に、名前入り帽子を製作・提供するようになります。
1930 - 1939
困難な時代、新たな好機
大恐慌は、あらゆる人にとって大変苦しい時代でしたが、ステットソンはイノベーションを続けることでそれを乗り切って行きます。国全体が苦境に立つ中、実用的なニーズと大きな希望に応えられる様に生産を拡大し、製品ラインナップの拡大を図ります。
1930 - 1939
「ファッションは恐慌に負けはしない」との信念から、ステットソンは1930年に婦人帽子の専門部隊「ミリナリー」を発足します。
高級ラインの「ロイヤル・ステットソン」
ハリウッド映画が、人々を厳しい現実から華やかなロマンの世界へ導いた様に、ステットソンも、ゴージャスながら手の届くお洒落を発信します。
1940 - 1949
40年代
第二次世界大戦に際し、ステットソンは積極的に国に協力する姿勢を取ります。軍人向けに大量の帽子を生産し、従業員から志願兵を募り、労働力と資材を国に供出します。また、思慮分別の大切さをテーマとする広告キャンペーンを展開します。
1940 - 1949
広告で国のメッセージを支持。
鷹はアメリカの愛国心の象徴。
これらの広告には、大衆に直接語りかけるステットソンならではの能力を生かし、戦争の意義への支持を訴えかける、愛国的な熱意が反映されています。
第二次世界大戦が終結すると、輝きとファッションを求めるアメリカの繁栄が戻ってきます。
1950 - 1959
50年代
戦後のオプティミズムの波に乗り、ステットソンは「世界一高価な帽子」を製作し、そのPRのために世界ツアーへ繰り出します。 アメリカでは人々が平和と好景気を享受しており、当時の広告にもそれがよく表れています。
1950 - 1959
ビーバーの毛皮をフェルトにし、作り上げた帽子にはスターリング・シルバーを編んだバンドが巻かれ、純金のロングホーン牛の飾りが付いています。この帽子は43人もの職人が1年がかりで製作しました。
職人の手作りによるモロッコ革の帽子箱には、細かく複雑なパターンで装飾が施され、真ん中に世界地図が描かれています。
ステットソンの「クションド・トゥ・フィット」レザーは70年にわたり、かぶり心地のよい帽子の基本とされてきました。
クラシックな「マッド・メン」広告は、上昇志向の強い男性のニーズに応える為のものです。
1960 - 1969
60年代
無帽の大統領(JFK)とリンドン・B・ジョンソン(LBJ)帽子の売れ行きは50年代から陰りが見えていましたが、1961年の大統領就任式にジョン・F・ケネディが帽子を被らずに現れたのは、致命的な出来事です。しかし、ケネディ暗殺後に政権を引き継いだテキサス人のリンドン・B・ジョンソンは帽子を愛用し、ステットソンが創立100周年を祝う頃には、ステットソンの過去からの業績と今後10年の方向性を体現してくれました。
1960 - 1969
年配者が押し付ける社会的拘束、特に「然るべき服装」から自分たちを解き放った世代。
当選後に出身州に凱旋しました。
無帽のボスに従う副大統領は、ウェスタンハットを手に群集に応えます。
1965年に 創立100周年を祝い、記念冊子が製作されます。キャッチフレーズは「Born in America, Worn ‘Round the World(アメリカで生まれ、世界で被られる)」
大統領選の戦いが終わると、帽子業界の戦いが巻き起こります。1964年にジョンソンが大統領選で勝利すると、帽子業界では新大統領が被る帽子のスタイルを売り込もうと必死になります。そこで、ステットソンは、ジョンソンが 愛用したスタイルを「オープン・ロード」と命名し、大きな成果を挙げる事になります。
1970 - 1979
大転換期
帽子は、日常生活での必須の装身具ではなくなり、多くの帽子会社が廃業へと追い込まれます。ステットソンも、フィラデルフィア工場の生産を停止し、跡地を市に寄付。生産はミズーリ州セントジョゼフ工場で継続し、景気の良い西部市場を主にターゲットとします。
1970 - 1979
カントリー・ミュージック・アソシエーションで6回、アカデミー・オブ・カントリー・ミュージックで8回の受賞歴を持つドン・ウィリアムズは、長年にわたるステットソン愛用者です。2010年にはカントリー・ミュージック・ ホール・オブ・フェイムに殿堂入りします。
1978年放映開始のドラマ「ダラス」は、世界中で絶大な人気を博し、共産主義衰退の一助となったという説が出るほど、テキサスの石油王の野心的なイメージを強烈に焼き付けます。
西部は依然としてステットソンの最重要市場です。アメリカ西部で生まれた帽子は、ファッションやトレンドが移り変わる中でも、創立200年に向けてブランドを支え続けています。
1980 - 1989
20世紀の終盤
ステットソンは製造・販売からライセンス・ビジネスへと方向転換を図り、自らをライフスタイル・ブランドと位置づけて、フレグランスやアイウェアへと商品ラインナップを拡大します。「レイダース/失われたアーク〈聖櫃〉」や「アーバン・カウボーイ」などの映画が帽子の売上を大い後押しします。
1980 - 1989
ステットソンのライセンス商品は、創業当時から今日に至るまで、人々に強く支持されています。これは、アメリカ人が持つ、ステットソンのネーム・バリューの強さを証明しています。
時代の最先端のファッション・デザイナー「ノーマ・カマリ」とのコラボレーション。
ステットソンはアイコニックな帽子メーカーであり続けています。人々はステットソンから魅力的な帽子が登場するのを心待ちにしています。
混乱と変化の時代
2000 - 2014
21世紀の夜明け
ステットソンは、ライフスタイル・ブランドとして、アパレル、フットウェア、ホームグッズを展開。ヨーロッパでライセンス契約が結ばれています。西部開拓時代に敬意を表し、コレクターズアイテムである、限定版のコルト®・リボルバーを発売。また「ヒップスター」ファッションの始まりとともに、ドレスハットが復活します。
2000 - 2014
若々しくカジュアルでファッショナブルな装身具として、帽子は劇的な復活を遂げます。
西部のライフスタイルに加え、他の地域へも視野を拡大しています。
ステットソンは、チャーチル・ダウンズ®競馬場およびケンタッキー・ダービー®と共同で、「紳士用アメニティ」を発売。
設立当初から、ヨーロッパはステットソンにとって重要な市場でした。1990年代後半にヨーロッパの会社と提携を結び、21世紀にはフルライセンス契約へと発展。ステットソンはブランドのアメリカン・ルーツを伝えつつ、市場からの多様なファッションやトレンドのニーズに応えており、ヨーロッパでのビジネスは順調に拡大しています。
ステットソンが継承するアメリカの伝統に敬意を表し、さまざまなコレクターズアイテムに、ステットソンの象徴的イメージが描きこまれています。
2015 -
今日と明日と
ステットソンは、すべての人を、時空を超えた旅にいざないます。多様性と統一性を保ちながら、革新的で適応性に優れたステットソンは、伝統に対して最大限の敬意を表しています。私たちは語り部として、この会社の伝統を次世代に引き継いでいきます。
2015 -
このイベントを記念して、ステットソン・バーボンを2012年に発売。
マムフォード・アンド・サンズをフィーチャーした2013年「ジェントルメン・オブ・ザ・ロード」ツアーの始動。
NASCAR®の有力チーム「リチャード・チルドレス・レーシングチーム」とトップドライバーであるオースティン・ディロンとのコラボレーションは、ステットソンにとって2015年のハイライトのひとつです。
ステットソンは、ファッショナブルでウェスタン・スピリッツを、これまで同様、これからも体現していきます。
歴史、そして未来は、私たちすべてのものです。ステットソンはソーシャルメディアを通じて、積極的に人々と語り合います。一人一人のストーリーの中からヒストリーが作られることを知っているからです。あなたのInstagramストーリーを@Stetsonusaで、ぜひ私たちとシェアしてください。